加賀橋立 船主集落の沿革


北前船の里の誕生
北前船とは江戸時代後半から明治時代にかけて活躍した商船のことです。


 大阪から日本海を北上し北海道までを往復して、莫大な富を得ていました。
北前船の商売の中心は、船主が寄港地で直接、物を売り買いして利益を上げる方式でした。
 この加賀橋立は、近世前半までは茅葺民家が建ち並ぶ半農半漁の集落であったようです。
18世紀半ばから北前船の船主となるものがあらわれ、寛政八年(1796)には船主34名と船頭八名が確認でき、
次第に船主や船頭、船乗りなど北前船にかかわる人々居住する集落へと発展しました。

さらに分家や移住などにより次第に集落の人口は増え、新しい家が集落の奥に建てられるようになります。
そして19世紀に入ると橋立特有の、切妻造妻入り瓦葺きの、
従来から比べると格段に規模の大きな「北前船船主型」の家が誕生します。

特に天保年間(1830頃)から明治初期(1870頃)にかけて、
この橋立の「北前船主型家屋」の特徴であるオエ(居間)+6室という家屋形態が確立されました。


◆明治5年の大火と町並みの復興
 明治5年(1872)、橋立は大火にあって集落の建物の2/3にあたる122件の建物が失われます。
しかし、そのころは北前船の最盛期でもあり、藩政の家作に対する制限もなくなっていたため、
復興に際しては以前にも増して巨大な屋敷が建ち並ぶ、華やかな時代を迎えたのです。


◆繁栄と衰退の跡が共存する町並み
 汽船や鉄道輸送が発達したため、北前船は輸送の主役の座を追われ、
明治後半から船主や船数が減少し、衰退していきました。


それでも現在橋立には、まだかつての北前船主や船頭たちの豪壮な建物がいくつも残っており、
かつての栄華を偲ばせています。


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